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目次
序
第一章 恋愛関係について
第一節 恋愛の定義
第二節 コミュニケーションにおける規則の妄信
第三節 恋愛関係の特殊性
第二章 一般的関係性について
第一節 《他者》としての世界
第二節 主観的客観の認識について
第三節 他者としての〈私〉・他者としての《私》
結語
参考文献
おまけ・卒論発表時のレジュメ
序
私は、そもそも「恋愛」というものが嫌いだった。
気がつけば、口々に語られる「恋愛」の数々。身近な周囲の友人たちを始め、小説やドラマ、そして音楽においても、それこそ熱にうかされたかのように、みんな「恋愛」を語りつづけていく。
あまりに氾濫する「恋愛」のディスクール。はたして、そこには「恋愛至上主義」めいたものはなかっただろうか。あるいは、宗教めいた盲目的服従は。
幼いころから私は、そうした風潮に気持ち悪さを感じてならなかった。
しかし、なぜ、そこまで「恋愛」を毛嫌いする私が、恋愛をテーマに考察していこうというのだろうか。
それにはいくつかの理由をあげることができる。
まず第一に、私が嫌悪するのは「恋愛」について語るという行為だということ。それはおそらくは、恋愛のディスクールで用いられる言葉の空虚さと、その空虚さゆえの強制力から生まれるものであるのだろう。なお、そのことは、恋愛における対話を考察していけば、さらにはっきりとしていくものと思われる。
さらに、私自身の問題としての他者の重要性があげられる。いわば世界は自己と他者との関係性によって構成されており、さらにいえば自己自体も他者との関係性によって規定されている。そのことを考察することにより、いままで根本問題とされていた心身二元論や他我問題、独我論などから解き放たれる扉になるのではないかと思われる。つまり本論の中心議題は「他者」である。むしろ恋愛は、そういった関係性が極端に現れる場としての一例にすぎず、その意味では本論はけっして「恋愛論」ではないのである。
だが、かといって恋愛を軽んじているわけではないことも、つけ加えておかねばなるまい。自己の周囲にはあまたの他者が存在しているが、しかしその他者性をもっとも具現しているのは恋愛関係における恋愛対象なのである。逆にいえば、恋愛対象の帯びる他者性こそ真の他者性であると仮定し、考察しているともいえる。つまりは本論においては、他者を論じる上で、恋愛関係は必要不可欠なものであるのだ。
これらが私が恋愛を取り上げる理由である。
本論では、以上のような理由から、まず恋愛関係について考察していく。そこでは、「他者」というものが主体に現前するものであって、主体を排除した「構造」には存在しないことを示し、そのうえで、主体にとって「異人」である《他者》(=恋愛対象)がどのように立ち現れ、どのように相互理解を行っていくかを考察していく。
つぎに、恋愛関係から《他者》を一般化させ、コミュニケーションの問題から客観的な真理の問題、さらに世界を分節化する言語の問題にまで触れていき、わずかでも私なりの意見を述べられれば、と考えている。
本論にどんな意義があるかは、私自身にはまったく見当すらつかないものであるが、少なくとも私の考えを提示し、批判を受けるべき土壌にはなるだろうと思われる。
なお、注釈をつけてはいるが、極めて主観的な意見ゆえに本文には書かれなかったわけであり、わざわざ苦労して読むまでもないことをつけくわえておく。
第一章 恋愛関係について
【1】恋愛の定義
私が「恋愛」という語でなにを語らんとしているのか。恋愛関係について論じるには、まず、その「恋愛」自体についてはっきりさせなければならないだろう。
そもそも恋愛に関しては、古くから論じられてきた。だが、いずれもが恋愛とは自明なものとして主題化しておらず、その多くが恋愛の生じる理由を考察していたり、あるいはその対象によって分類するだけのものになっている。
むしろ私が主題にしようとしている「恋愛」とは、理由や分類すらも存在しない、瞬間瞬間、まさに「あるがまま」の生きた恋愛である。
だが、はたしてその姿を正確にとらえることなど、できるのだろうか。
ロラン・バルトはそういった恋愛のとらえがたさについて語っている。引用してみよう。
「1 わたしは恋愛について何を考えているか。要するに何も考えてはいない。恋愛の何たるかを知りたくは思う。しかし、自らその内部にいるわたしは、恋愛をその本質においてではなく、その実際において見ているのだ。わたしが理解したく思うもの(恋愛)は、それについて語るために用いる素材(恋愛のディスクール)と同じものなのである。もちろん反省は可能である。ただ、この反省もたちまちにイメージのくりごとに捉えられ、けっして真の反省へと向かうことがない。」 (バルト[1980]P.89)
ここでバルトは、恋愛とは事後的にとらえられるしかなく、さらに事後的にとらえたとしても言語の網の目によってからめとられてしまうといっている。さらにいえば、事後的に解釈するという行為は、現在における自己の状況(周囲との関係性)に影響された価値基準によって、当時の状況を把握するというものであり、そういった面からいっても事後解釈が正統的なものとはいいえない。
序でいった「恋愛のディスクールで用いられる言葉の空虚さ」とは、ここで見たような観点からいわれたものである。
これらのことから恋愛の定義としては、「まさにたった今」性を含んだような定義が必要とされることになる。それは言いかえれば、「現在に埋没した自己」性とも言いえるだろう(1)。つまりは完全に主観的な恋愛の定義が要請されるのである。
また、主観的でなければならないということは、べつの観点からも説明することができる。そのためには、ふたたびバルトの言説に頼らなければならない。
「ATOPOS アトポス
愛する人は、恋愛主体によって『アトポス』〔…〕とみなされる。つまり、分類不可能なもの、常に測りがたい独自性をもつもの、である。」(バルト[1980]P.54)
恋愛対象がその「測りがたい独自性をも」って現前するのは、あくまで主体の前でしかない。主体にとらえられていないときの恋愛対象は、いわば恋愛対象である資格を失った、社会の網の目における交換可能な記号でしかありえない。むしろ、この議論で前提とされている恋愛関係においては、恋愛対象も、そして主観的という意味で恋愛主体すらも「アトポス」だということが、帰結されるのである(2) 。
なお、このことからも「恋愛談義」は否定的に見ることができる。つまり、日常的な「恋愛談義」では、「アトポス」であるべき恋愛対象が、非・人称的な三人称代名詞に還元されてしまうのである。それは主体にとっては、あまりに堪えがたいことではないだろうか。
以上のようなことから、恋愛とは、恋愛主体と恋愛対象の関係性において対象が指向されており、また、主観的にとらえられるものだということが明らかにされる。以後、恋愛主体の視点から恋愛をとらえることにより、「主観的にとらえられる」という定義も含意されていることにする。
すると、私たちが考察してきた定義が、大澤真幸の「性愛」の概念と結びつく(3)。
彼の言葉を引用してみると、それは以下のようになる。
「ここで『愛』というのは、他者(の身体)の存在を、全体として(つまり特定の目的に特殊化されることなく)直接に享受するような関係性のことである。とりわけ、愛が特異的な他者(の身体)に向けられているとき───したがって関係の双数性が純粋に結晶しているとき───それを『性愛』と呼ぶことにする。強い愛は、しばしば、特異的な他者に集中的に向けられる。したがって、性愛は、愛の愛たる所以を凝縮したときに現れる関係の形式であるということができるだろう。」(大澤[1996]P.51)
それでは、その関係性とは、具体的にはいかなるものなのだろうか。
これからいくつかの議論に寄り添いながらも、批判を加えつつ、そのことについて考察していこう。
(1)この「現在に埋没した自己」をカントの用語を利用し、「経験的主観」と呼ぶ。なお、カント用語に関しては、カント研究会[1989]の植村恒一郎の論文のみで 学習したことをつけ加えておく。
(2)この記述は、一見、バルトの「あの人の輝くばかりの独自性を前にして、わたしはついに自分をアトポスと感じることがない。むしろ、分類されたもの(周知の資料かなにかのように)と感じるのだ」(バルト[1980]P.56)という記述と相反するかのように見受けられるかもしれない。だが、ここでは恋愛対象との比較によって、自分のアトピアが否定されているということに注意すべきであろう。
(3)これは不思議なことでもなんでもない。正直にいえば、私は大澤の恋愛観にかなり染まっていた……とだけ、ここではいっておこう。それゆえの帰結である。
【2】コミュニケーションにおける規則の妄信
ここでは具体的な恋愛における関係性、つまりは恋愛対象がいかにして主体の前に現前し、さらにどのように関係を結ぶのかということを考えていく。そのためにも、ここではあくまで恋愛空間を究極の到達点として狙いながら、一般的なコミュニケーションも視野に入れて議論を進めていく。
さて、恋愛主体にとって対象はいかなる存在なのだろうか。これはまずは広い意味でとると、定義上、主体によって指向されるものだということができる。
そして、関係性において指向されるということは、対象が解釈すべき記号と化すことを含意している(1) 。ちなみにここでいう「関係性」とは、相互に影響を与えあうような状態を指していることに留意していただきたい。
具体例をあげれば、記号化の作用はよく理解されるであろう。
「恋愛主体たるわたしには、目新しいもの、心を乱すものは、すべて、事実としてではなく、解釈を下すべき記号として受けとれるのだ。恋愛者の視点からすれば、事実は、それがただちに記号へと変容するがゆえに重大なのである。重要なのは事実ではなく記号なのだ(その反響ゆえに)。あの人が新しい電話番号を教えてくれた。あれはなんの記号だったのか。気が向けばいますぐかけてくださいという招待だったのか。それともやむをえぬときにだけ、必要があればおかけなさいということだったのか。わたしが答えをだせば、それ自体が記号となるだろう。あの人がそれに解釈を下すのは避けがたいところである。」(バルト[1980] P.94-95)
そればかりではない。恋愛関係においては、不在の空間にすらも対象は現前する。
「あの人」のいない空間では、周囲の風景はただ、不在を投射するスクリーンとしての意味しか持たないのだ。
「5 不在の人にむけて、その不在にまつわるディスクールを果てどとなくくりかえす。これはまことに不思議な状況である。あの人は、指示対象としては不在でありながら、発話の受け手としては現前しているのだ」(バルト[1980]P.26)
そしてその不在すらもが意味を持つべき記号と化す(彼女は来ない。約束の時間を、場所を間違えているのだろうか。それともなにかが起こったのだろうか。いや、むしろ私になにかが起こったのかもしれない。私は嫌われたのだろうか……)。
それらの記号には、すでに慣習的に定められた意味などはない。主体にとっては参照すべき辞書のような便利なものは存在していないのだ。
「SIGNES 記号
自分の愛を証明したいと思っても、自分が愛されているのかどうか知りたいと思っても、恋愛主体は、確実な記号体系を一切もちあわせていない。」(バルト[1980] P.318)
確かに恋愛主体はいままでの慣習から推測することはできるだろう。だが、それを根拠づけるものはなにも存在しないのだ。そればかりか意識すれば意識するほど、その解釈は疑わしく思えてくる。もはや主体にとって対象はわかりえぬものとなっている。そして「卜筮のたぐいがそうであるように、恋愛について問うものもまた、自らその真実を作り出すほかないのである」(バルト[1980] P.320)。
この恋愛における関係性は、ウィトゲンシュタインの考察を受け、クリプキが提唱した「暗闇の中での根拠なき跳躍」という表現に表されるようなものであるだろう。
本章第一節では、バルトの言葉を引きながら、恋愛とは事後的にとらえられるしかないものだと述べた。それはいわば、自転車を一生懸命こいでいるときに「私は自転車をこいでいる」とは考えないということである。
一方、ここでの議論は、自転車をこぐときに「自転車とは、サドルとの作用反作用から足を踏み下ろし、その直線的エネルギーを回転エネルギーに変換させ、タイヤと地面との摩擦から前に進むことができる」などと物理的な規則の適応については一切考えずに、ただ、こぐという行為があって前に進んでいるだけだということを示している。意識してみれば、自分の行為にはいくらでも解釈を与えることができる。それはまるで規則などないかのようでもある。しかし、私はなんらかの規則に、いわば盲目的に従っているのだ(2)。
恋愛において、主体は対象のもたらす記号が、まるで規則がないかのように見えている。それはいくらでも解釈することができるのだ。つまり主体は、それを意識するあまり、観察者になってしまったということができる(3)。彼にとってはあらゆる自分の選択が「暗闇の中での根拠なき跳躍」であるかのように感じられるのである。
はたして、恋愛主体は、どのように「対象のもたらす記号」を解釈してしまうのだろうか。そして、それはなにゆえに。これらの疑問を解決することこそが、恋愛における関係性を解きあかすことになるはずである。
また、ここで出てきたコミュニケーションにおける「暗闇の中での根拠なき跳躍」性を強く強調したのが柄谷行人である。彼は「『教える−学ぶ』という非対称な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である」(柄谷[1992]P.11)として、同一の規則を持たない者同士の対話について論じている。
柄谷の主張する「『教える−学ぶ』という非対称な関係」と、私たちが考察している恋愛関係にはどのような違いがあるのだろうか。このことも考えてみなければならないだろう。
それでは、そういったコミュニケーションは、どのようになされているのだろうか。いままでの議論を踏まえながら、具体例を上げて考えていくことにしよう。
そのまえにコミュニケーションの定義としては、大澤の「自己Aが他者Bの選択を前提にして自らの選択を現実化すること、あるいは他者Bが自己Aの選択を前提にしていることを予期しうること」(大澤[1996]P.19)という定義を用いる。そのためには、他者Bの選択が自己Aに理解される、あるいは自己Aの選択が他者Bに理解されなければならない。これが成立の条件である(4)(なお、大澤はこのことを「他者Bの選択が自己Aの帰属する宇宙において〔…〕再現=翻訳されなければならない」と表現している)。
さて、舞台は現代の日本社会に位置する、極めて平凡な大学生の生活である。時期としては大学も冬休みに入り、クリスマスも過ぎたある暮れの出来事。
恋愛主体である「彼」は、対象である「彼女」と共にこたつにあたり、みかんを食べていた。ふと彼女がいう。
「お正月はどうするの」
彼はまず、聴覚の働きによって、ふいに生じた空気の振動を「オショウガツワドウスルノ」という音声として聞き取った。そして、音声は瞬時に「お正月・は・どう・する・の」と分節化され、言語として認められたと同時に、その言葉は「1月1日からの数日間、あなたはどうする予定ですか」という質問としての意味を帯びる。
彼はここで、その質問がなにを尋ねているのか推測しなければならない。彼は「みかんを食べる」とも「実家に帰っている」とも答えることができるのである。
そればかりではない。彼はその質問が発話された理由すらも推測しなければならないのである。
なぜ、彼女はそんなことを聞くのだろう。
さまざまな推測が彼の心に去来する。彼女はお正月を私と共に過ごす気は始めからないというのだろうか。あるいは(嬉しいことに)私と共に過ごすつもりなのだろうか。それ以外にも、もしかしたら彼女は「みかんばっか食べてないで勉強しなさい」といいたいのかもしれない。
彼は、実家に帰って正月を過ごすというつもりで、恐る恐る「家でのんびり過ごそうかなぁ」と答えを返した。
同様にして彼女は音声を分節化し、そこに意味を聞き取る。
だが、「家」がなにを意味しているかわからない。たまたま彼女はそれを「下宿先のアパートで正月を過ごす」と受け取ってしまった。
さらに彼女は、その彼の言葉を解釈しはじめる。
彼は私がそばにいることを望んでいるのかもしれない。あるいは寂しいのではなく、むしろ迷惑していて、私がいたら「のんびり」できないといいたいのかもしれない。
彼女は考えあぐねたあげく、ただ「ふーん」とだけいっておいた。
……これは、恋愛関係にはいかにもありがちな会話であろう。
大澤や柄谷の議論において問題視されているのは、この会話のなかでも、意味の伝達という働きなのである。すなわち、始めに彼女の発した「オショウガツワドウスルノ」という音声が、「お正月はどうするの」という質問を意味していると、彼はどうして理解できるのだろうか、という問題である。その音声は、ひょっとしたら未開の民族の言語かもしれないのだ(そして、それはたとえば「みかんの姿焼き」を意味するとしたら)。
その発話によって、彼女は「お正月はどうするの」を意味していることを、彼が知るためには、発話と意味を結びつけるようなコードが共有されていなければならなくなる。しかし、そのコードが共有されているという保証はどこにもないのである(たとえ「君は『オショウガツワドウスルノ』という音声で、『お正月はどうするの』を意味しているんでしょ」と尋ねたとしても、相手には冗談ぐらいにしか聞こえない)。
さらに、たまたまそのコードが共有されていたとしても、また問題が出てくる。つまり、彼は、彼女とそのコードが共有されているということを、知らなければならないのである。くわしく説明すれば、彼女が「オショウガツワドウスルノ」という音声が「お正月はどうするの」という意味に結びつくということを知っていて発話した、ということを彼が知っている必要があるということである。
さらに彼だけが、彼女とコードを共有していることを知っていても意味はない。そのコードを共有しているという知識すらも共有されなければならず、しかも彼はその知識が共有されていることも知らなければならないのである。
こうして知識の共有は、無限に必要とされていく。いわばコミュニケーションが成立するには、彼女の知識に対する知識をすべて持っていなければならないということになる。
だが、コミュニケーションはその無限階にまでいたる反射を無化して、現に、いささかの遅延もなく成立している。このことをうけ、大澤はつぎのようにいっている。
「われわれがコミュニケーションと呼んでいる現象は、自己の心的世界の中で対象化される他者が、他者たる限りでの自己との距離=差異を保持しつつ、自己と対等できるような心的世界の帰属者(ということはそれは心的世界の単なる対象以上のものなのである)として現れ、自己と直接に同化しているような体験の領野によって、支持されているのだ」(大澤[1994] P.283)
一方、柄谷の議論ではどうであろうか。彼は《他者》という言葉で「われわれを理解しない他者の極限を想定」(柄谷[1992]P.38)している。そして「われわれを理解しない他者」とは「言語を他者とのコミュニケーションにおいてみるとき、『同一的な意味』を想定することはできない」(柄谷[1992]P.43)としている。
柄谷のあげている囲碁の例があるので引用してみよう。
「たとえば、囲碁をやるとき、私は相手の手を予測し、その裏をかこうとする。相手も同様にそうする。だが、それは囲碁の規則が不変であることを前提している。私の友人は、連珠(五目並べ)を碁だと思い込んでいる男と囲碁を打ったことがあった。幸いにして三手目で気づいたのだが、このような勝負においては、両者が一方的に勝利したことを主張しあうということがありうる。」(柄谷[1992] P.233)
これを言語におけるコミュニケーションにあてはめるとするならば、発声するという規則だけが共通で、ひとりが即興演奏的な歌のやりとり(それは無意味な、ハミングのようなものだったとしてもよい)だと思い込み、もうひとりのほうは対話だと思い込んでいる場合をあげることができるだろう。一方にとってみれば、コード進行に則った音程の変化を歌って示してくれることが「規則に従っている」状態なのである。
さらに、歌い返すという規則には従っていたかもしれないが、今度はコードの進行規則に従っていないという状態も想像できる。
さきほどの事例にあてはめてみるならば、彼は彼女が「会話をする」という規則に従っているものかどうか理解はできない。それこそ歌っているのかもしれないのだ。だが、会話の規則に従っていると仮定したとしても、さらにその言語規則に対する疑いが出てくる。「オショウガツワドウスルノ」とは「みかんの姿焼き」を意味しているのかもしれない。そしてさらに、彼女が言語規則にすら従っていたとしても、その「お正月はどうするの」という意味を持った言語(それは疑問という形式を持っている)が、額面どおりの意味を持っているとは限らないのである。まさに、恋愛主体の懐疑はそこに向けられている。いわば本音の規則とでもいったものが疑われているのだ。
どうして、それらの規則が共有されていることが理解されよう。われわれは、その身体性ゆえに独我論的にとどまらざるをえないのだから。そんなとき「無限」は甘い誘惑をもって、われわれの前に立ち現れてくる。だが、われわれはこれを拒否しなければならない。なぜなら、「無限」はどこまでいっても「無限」なのだから(5) 。
しかし、われわれはいとも簡単にコミュニケーションを行っているのが実情である。そして、われわれは規則が共有されているものだと信じ込んでいる(誰が、会話をしていて「歌っている」だの「異なる言語を話している」だの考えるだろうか)。それはなぜであろうか。
ここで以下のような思考実験を行ってみる。彼は会話の規則に従っているのだが、彼女のほうは「歌っていた」としてみよう。その状況において実際に行為されている音声は、「お正月はどうするの」→「家でのんびり過ごそうかなぁ」→「ふーん」である。そこで、彼が彼女の規則に反していたとしたらどうなるであろうか。たちまち、彼女は違和感を感じて、そのことを彼に尋ねてみようと思うであろう。逆の立場でも同様である。もちろん、彼が尋ねたその言葉すらも「歌う」という規則で受けとめ、会話規則では理解のできない音声で、彼女が「歌い」つづけるという事態も想像はできる。さらに懐疑的になれば、彼には会話規則に従っているように聞こえるような音声で、彼女が(実際的には)歌いつづけるという事態すらも想像ができるのである。だが、それは会話以外のなにものであろうか。
また、今度は彼女の従う言語規則が共有されていなかった場合を考えてみよう。そのときも彼の回答が、彼女には意味がなかったとしたら、あるいは脈絡のない答えだったとしたら、彼女はやはり違和感を持つだろう。もし、持たないような妥当な返事が返ってきたとするならば、悲劇とも喜劇ともつかないが、それでも会話は成立しているのである(6)。
さらに音声の変換規則が異なる場合も考えられる。彼としては「臭い」といっているつもりなのだが、聞いている人には「鼻血が出た」としか聞こえない場合である。周囲が「鼻血が出た」といっても、彼には「臭い」としか聞こえず、相手が鼻にティッシュペーパーをつめている姿を見て、妙に感心したりもする。このように偶然にして互いに違和感を持たない場合、そのコミュニケーションは成立しているといえるのである。
セロニアス・モンクというジャズ・ピアニストがいた。彼は常識的なジャズ概念からは想像もつかないような音づかいをする。おそらく始めて聞いた人間は「間違っている」と思ったことだろう。だが、それすらも現在では、音楽理論のなかに位置づけられてしまっているのである(「モンク独特の短2度和音」)。
彼がジャズ・ピアニストであるということは、なにから推測されるのか。それはモンクの意識(意図)によってではない。たとえモンクが、どんなに自分をジャズ・プレイヤーだと思っていたとしても、そのピアノが誰の耳にも「トッカータとフーガ」の亜流に聞こえるのならば、彼はジャズ・ピアニストとは認められないからである。彼がジャズだと認められるのは、ジャズのフレーズも弾いているためにすぎない。そして、そのジャズ・フレーズとの関係性から、モンク独特の音づかいも「ジャズ」に位置づけられるのである。もし、モンクが「ジャズを弾いてみろ」といわれても「トッカータとフーガ」めいたものを演奏したとするならば、彼の「ジャズ」という概念が「間違っている」とされるだろう。それは言語規則が共有されていないということになる。
さらに考察を加えれば、そのモンクは「トッカータとフーガ」のようなものが「ジャズ」だと思っていたと仮定して、その日は「ジャズを演奏しよう」という意図を持って、(実際には)「トッカータとフーガ」を演奏したとしよう。だが、聞いている客の耳には「ジャズ」以外の音には聞こえないのである。つまりは音の変換規則が異なっていた場合を想像してみよう。モンクの耳には「トッカータとフーガ」が聞こえている。だが、彼も客もそれを「ジャズ」だと信じて疑わない。その場合、彼は「ジャズ・ピアニスト」の地位を手に入れることができるのだ。なぜなら誰からも文句はでないのだから。
このことは意図などは行為の前に、もろくも崩れさることを意味しているといえるだろう。だが、それも、正当な「意図と行為を結びつける」規則があると思われているからにすぎない。
つまり、われわれは会話をするときに、すでに「規則が共有されている」という規則に盲目的に従っているのである。それは、対話の対象に「私と(云々という)規則を共有する存在」という意味を与えているということもできる。
結局、思い込んでいるだけなのである。
たとえば、猫と遊んでいるときには、最低限として「行動は意図を持っている」という、「心の規則」とでもいうべき規則に従いながら、さらに「猫ならばこういう行動は、こういった意味を持つ」という意味の変換規則にも従っている。それが言葉の通じないような外国人であっても同様である。「外国人である」と認識された時点でどのような規則が適応されるのか、という意味も与えられるのである。
それでは精巧にできたアンドロイドならばどうだろうか。
「彼らは掃除をしたり、大工仕事をしたり、あるいは釣りをしたり、テニスをしたりする。挨拶だけではなく、会話も交わすだろうし、さらには涙と同じ成分を眼に対応するところから分泌し、あるいはまた、ある種の刺激に対してはまったく笑顔としか見えないように顔面の人工筋肉を調整して反応したりする。彼らは食物を口に対応するところから摂取し、科学処理を施してエネルギーに換え、残余物質を排泄する。」(野矢[1995]P.57)
外部からは、そのアンドロイドをいかに検査をしようとも、もはや判別はできない。私が「彼はアンドロイドである」という情報を知らなかったとすれば、彼は「人間である」と認識され、それに伴った規則が適応される。逆に「アンドロイドである」と認識されたとすれば、彼は「アンドロイドである」という意味を負うのである。その意味は、アンドロイドを自己との関係性に置いたことのないわたしたちには、まだ予測すらすることができないものである。だが、あえて推測するならば、心身二元論に基づいた「心がない」という表現が与えられるであろう。しかし、これがなんの意味を持つというのか。近所の奥さんと井戸端会議をしていて「そういえば、あなた、アンドロイドなんですって」というとき、その二者のあいだに、なにが介入してくるのだろうか。私にはなにも変わらないように思える。あるいは野矢の想定するように、ある日、全知全能の神が現れ、アンドロイドに「心」を与えた、といったならば、彼らのなにが変わったというのだろうか。相変わらず、彼らに与えられる記号は「アンドロイドである」のままなのでないだろうか。
それらの記号は、そのように分節された概念を学習するときに、同時にさまざまに規定されている関係性も学ぶことによって成立している。私の部屋にあるゴミ箱ならば、「ごみ箱」という概念で見ることによって、「非生物」だとか「ゴミを捨てる場所」だとかの意味を持つ。「円筒形」と見れば、「傘置きにもなる」とか「転がる」という意味を担うだろう。「金属製」という概念は、「物理法則を受けるべき物質である」という意味をはらんでおり、そこから導かれる形で「投げれば、金属的な音をけたたましく立てながら、何度か跳ね返りつつ飛んでいくだろう」という行動規則が意味される。
それらと対人関係には、なんら変わるところがないのである。
(1)対象が記号と化すということは、すでに「指向される」という言葉に含まれている。さらにいえば「関係性において」ということは「指向する」ということと同意であり、ゆえに「関係性において」ということで「対象が記号と化す」ことは すでにいわれているのである。この箇所はいわば冗長な本論を象徴するような議論であった。
(2)ここでは明らかに「言語ゲーム」を意識しすぎている。
(3)「わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去る」(バルト[1980] P.287)とまでいわれ、しばしば狂気にも例えられる恋愛だけに意外に思われるかもしれないが、このことは、臆病なものは注意深いということで説明できる。
(4)この条件では意図どおりに通じることを含意しない。たとえば「私は、眼前の相手を励ましたいと思い、かつ『何やっているんだ、おまえ』という音声的振舞が励ましになると思」い、その言葉を発したのだが、それが「罵倒したという事実を残しただけ」になってしまうということが考えられる(以上の例は,大庭[1989]P.86-87 による)。この状況においても、私の選択を前提にして相手は選択(たとえば、怒り狂う)しているのである。すると条件からコミュニケーションは成立したといわざるをえない。はたして、ただ通じるだけでいいのだろうか。完全に意図どおりに通じなければ、コミュニケーションが成立したとはいえないのではないだろうか。……しかし、その感覚は独我的な「意図」観が生んだ誤謬なのである。後ほど考察する予定であり、いまここでは、そういった独我論者に対して「完全に意図どおりに通じたとは、どのように判断されるのか」と問うだけにとどめておきたい。
(5)もちろん、「無限」は完結した実体である、という人もいることだろう。そういった人には、大澤[1996](もしくは大澤[1994])の議論をお勧めしておく。やはり私としては、コミュニケーションにおいて、このような無限階の操作がなされているとは思えない。理論的整合性を求めるあまりの、研究者のフィクションのように感じられるからだ。
(6)「あの生き物はなんていう名前なんだね」「わかんねえ」「そうか、あれは『ワカンネエ』というのか」(カンガルーの名前の由来)
【3】恋愛関係の特殊性
だが、さきほどの事例で見たように、恋愛関係にある主体は、他者との規則(いわば「本音の規則」)の共有を信じることができないでいる。
主体が対象を「自分と同じ言語的な規則を持つもの」として認識し、前提にしているのは明らかである。彼には、彼女がいっている言葉の意味は、理解できるのだ(と、盲目的に信じている)。しかし、彼女がどういう意味でそういったのかが理解できない。その言葉がなにを意味しているのか、彼にはそれが気になって仕方がない。そして、もちろん素直に字義どおり受け取るわけにはいかないのである。
それはなぜだろうか。その答えは最初の恋愛の定義、「恋愛とは、恋愛主体と恋愛対象の関係性において対象が指向されて」いるということから導くことができる。
関係性にあるということは、相互に影響を与えあうような状態にあるということである。つまり、こちらの選択によって向こう側の存在に変化が生じ、同様にして、向こう側の選択がこちらに影響を及ぼすような状態のことを「関係性」と呼んでいるのである。
私が洗濯機のボタンを押し、いままで止まっていた洗濯機が動きはじめたとするだけならば、私と洗濯機のあいだには関係性にあるとはいいがたい。なぜなら、そこにあるのは一方的な関係にすぎないからだ。洗濯機には選択がない。もし、ボタンを押しても洗濯機が、気分が乗らないのか、作動を拒否したとするならば、私と洗濯機は関係性にあるといえるのである(1)。
これと同様のことが人間関係にもいえる。
教師が子供に対して、ただ「哲学史を覚えなさい」と命じ、子供が指示されるがまま行動するしかないようなとき、そこには関係性は存在していない。しかし、教師が子供の論文を読み、「哲学史も勉強したほうがいいね」といい、子供が苦笑を浮かべたとするならば、ふたりは「関係性にある」といえるのである。もちろん、どちらが倫理的に「よい」かは、教育観の違いによる。
だが、関係性において必要とされる、「選択」とはいったいなにを指すのだろうか。自由意志のことなのか。だとしたら、そんなものが存在するといえるのだろうか。
私は選択する。煙草を吸う。しかし、その選択は、私の体内でニコチンが不足してきたこと、そして思考が停滞し、気分がすぐれないことなどから、決定されたのではないか。そしてそれらの状況は、最後に喫煙したのはいつだったのか、あるいは論文の準備不足などから、決定されているのではないか。つまり、しかるべき状況さえ把握できれば、相手の選択をあらかじめ決定することはできるのである。
教師が子供の性質を把握していたならば、自分の望むままの反応を導くことができる。それが機械的な「ボタンを押す」という行為とどう違うといえるのだろうか。そして、教師の選択が新たな状況を生み、その状況によって子供の選択が決定されている。そして……。
この議論からは恐るべき決定論が導かれていく。あらゆる選択は状況によって決定されており、世界はまるでビリヤードの球のように、一度、転がりだした時点で、すべてが決定されている(2)。われわれには選択する自由意志などないのだ。
だが、私が思考していることは確かである。その思考もなにかしらの外的刺激によって引き起こされたものかもしれない。だが、私はそれを意識していない。いわば、盲目的に従っているのである。自分の選択が強制された結果だと感じられない場合に、それを「自由」と呼んでもいいのではないだろうか(3)。
また、「選択」は機械的な反応ではない。機械的な反応は、私の行為に対して、常に一対一の対応関係にある。それは関数にも置き換えることができるものである。だが、選択において問題とされている「状況」とは、そのような関係上の閉鎖的な空間だけに限定されはしない。私の行為だけが、相手の選択を決定する前提になるわけではないのである。いわば対象の包み込まれている空間(私も含める)が「状況」となっている。私にはその引き起こされる条件はわかりえない。つまり、予測できない結果を引き起こすことが「選択している」と呼ばれる。
私はルーレットをまわした。さて、そのうちルーレットは動きを止め、なにかしらの結果を指し示す。そのとき、ルーレットは選択しているのだろうか。私は「していない」と答える。なぜなら私がまわしたときに、「そのうち止まる」ということは前提にされていたからである。そのとき、なんらかの結果を指し示していることは、たまたまの偶然にすぎない。その偶然ですら、摩擦係数や私の与えた力の大きさなどから関数化することができ、閉鎖空間に閉じられた状況だといえるのである。
さて、「関係性」が定まった以上、話をもとに戻そう。
そのような相互交換的な関係性において、対象が指向されているということは、いったいどのような事態を引き起こすのだろうか。それは主体が、自らをシーソーの上に立たせるようなもの、つまりは関係性の閉鎖空間に自分を閉じ込めることに他ならない。それは自己の選択を決定する状況が、対象によってのみ、もたらされることを意味している。そこには機械的な、あるいは専制的な関係だけがあるばかりなのだ。
このことは、いかにも人間的に見える恋愛関係とは、相反するかのようにも感じられる。だが、そこで想像されているような和気あいあいとした恋愛関係では、対象のもたらす強制的な条件づけへの服従が、ただ、意識されていないだけなのである。そこには「自由」がある。むしろ「恋は盲目」という諺は、こういった意味でとらえられるべきであろう(4)。
またもバルトに登場願おう。
「わたしがぜひとも受けたいと思っているあの電話は、わたしの隷属にとってのさらに新たな機会をもたらすことになるだろう。したがってわたしは、わざわざ隷属状態のための場を確保し、これを機能させようと、懸命に努めていることになろう。わたしはそうした隷属状態を悲しんでいる。しかし、それ以上に、そうした状態を悲しいと思うこと自体を恥しく思ってもいる。」(バルト[1980] P.124-125)
主体にとって、対象の選択は従うべき規則を持った「問題」となる。対象が「A」と行為したならば、主体は「f(A) 」と答えなくてはならない。対象の言葉は、リモコンのボタンを押す行為に例えられる。主体としては、ぜひとも指示されたとおりの動作を見せなければならないのである。
だが、主体にはその「問題」を容易に読み取ることができない。「問題」の記述文自体が難解を極めており、それがどういう問題なのか理解できないのである。
禅匠たちが、石の上で一枚の瓦を磨きはじめる、あるいはいきなり食卓を蹴り上げる。見ている弟子たちにとっては、それが問題であろうことは、なんとなく想像できただろう。だが、どんな問題なのかが理解できない。そして、くわしい説明をうけてから、ようやく理解するのである。
ところが、恋愛主体の場合には、その説明すらもない。それは当然である。禅の公案のように模範解答があるわけではなく(5) 、対象はなかば無意識に行為しているのだから。あるいは、主体が関係性の閉鎖空間に閉じ込められているのとは異なり、対象の空間は関係性の外部にも開かれており、対象の行為は、それら外部の状況に理由づけされているのだから。それでも主体は、対象の「理由」が閉鎖的な関係性のうちにあるものと思い込み、必死に探ろうとする。
もし、恋愛対象が外部に「開かれている」ことを知ったならば、主体には、対象が「逃走するもの」として感じられてしまう。
「FADING フェイディング
愛する人があらゆる接触から身を退いてゆくように思える苦痛の試練。しかもこの謎めいた冷淡さは、直接恋愛主体に向けられたものでなく、さりとて世間とか、ライバルとか、いわゆる第三者に対する好意の反映でもないのだ。」(バルト[1980] P.168)
現実的な生活を送ろうとする恋愛対象は、それだけで「身を退いていくように」思われてしまうことになる。そして客観的になろうとする恋愛対象も。
さて、対象の行為に正答せざるをえなくなった恋愛主体は、対象からほんのわずかでもいいから情報を引き出そうとする。そうして、恋愛関係においては、対象が解釈されるべき記号と化す。そしてその「情報」こそが「意図」といわれるものである。
「対象の意図」、またも奇怪な言葉が出てきたものだ。
「意図」とは、なにを指す言葉だろうか。それは、行為(選択)の直接的な前提とされている思考のことである。
すこし具体的に見ていくとしよう。
最初に、われわれには「意図」はどのように現れてくるのだろうか、ということを考えてもらいたい。たとえば、私が「卒論提出期限まであと五日だ」との意図で、片手をひろげてじっと見つめたとしよう。今度は「働けど働けど、お金がたまらないなぁ」との意図で同様の行為をする。あるいは「俺の手って、大きい」との意図で。その他にも、「マメができてる」だの「なぜ指は五本なんだ」だの「あ、生命線が長いでやんの」だの、様々な意図を持って、同じ「片手をひろげてじっと見つめる」という行為が行われることだろう。そこで、私のその行為を見た友人が、「なんで掌を見ているの」と尋ねてきたとしよう。私はその行為をしていた時に考えていたことを理由としてあげればいい。いわく、「いや、最近、手が荒れてるから観察しようと思って」などと。
また、別の状況も想像してみよう。ある日、私は「新宿に行こう」と思い立ち、電車に乗って本を読んでいた。たまたま津田沼で知り合いが同じ車両に乗ってくる。私の姿を見つけて、彼はそばに寄ってきた。開口一番、「あれ、なにやってるの」。私は「新宿に買い物しに行こうかと思って」と答える。それからしばらくの無言。私は本を読みつづける。また、彼が口を開いた。「あれ、なにやってるの」。その問いに対して今度は、「前から読もうと思ってた本なんだけど、暇がなくて読めなくてさ、ちょうどいい機会だから、いま読んでいるんだ」と返事を返した。
これらのことから想像されるに、「意図」とは、自分が現在、まさに行っていると意識される行為の、その理由を指し示しているのである。
つまり、私が「電車に乗っている」と意識したならば、意図は「新宿に行く」であり、「本を読んでいる」と意識されるなら、意図は「読みたかった」なのである。
たったいま、私はこたつでワープロに向かっている。だが、私は様々な状況に置かれている。私は地球とともに太陽のまわりを回ろうともしているし、控えめな換気扇の動作音に包まれてもいる。さらに、ワープロのキーを右手で叩いてもいるし、キーを叩きながら同じことをつぶやいてもいる。左手で外反母趾ぎみの右足の親指を矯正するかのようにひねりあげてもいるし、たばこの煙で汚れた空気を呼吸器に取り込んでもいるのである。もし、誰かに「なぜ、そうしているの」と聞かれたら、私は「卒論を書きあげないといけないような事情があるから」と答えるだろう。私には卒論以外のことが問われていることなど想像もつかないのだから。だが「私が聞きたかったのは、なんで足の指をいじっているのかっていうこと」といわれたのなら、その理由はなんとか答えられるだろう。しかし「意図」は答えられない。なぜなら、その行為に「意図」は存在していないのだから。
だが、本当に卒論を書いていることに「意図」などあるのだろうか。たしかに、いかんともしがたい諸般の事情があって書いているのも事実ではあろう。しかし、その「卒論を書いている」という状態は、そういった大層な理由よりも、たんに書きたかったから書きはじめた、というほうが正しくはないだろうか。。つまり、もっとも真実に近い「意図」とは、「そうしたかったから」の一言でまとめられるのではないだろうか。
私がいいたいのは、具体的な理由を持つ「意図」とは、推測によって作り上げられたものだということである。確かに「手を挙げよう」との意図のもとに手を挙げることもできる。だが、手を挙げている瞬間、「手を挙げよう」という意図は存在していない。そこにあるのは行為と関係のないようなたんなる思考なのである。
たとえば「お風呂に入ろう」と考えながら、手を挙げてみてもらいたい。そのとき、まずは具体的なイメージが立てられ、「『お風呂に入ろう』と考えながら、手を挙げるんだな」と計画が確認される。そして手を挙げる。そのとき、あなたはどのように感じられたであろう。「お風呂に入ろう」という思考とは、また別のところで意図し、手を挙げているような感覚はなかっただろうか。さらに「どうして手を挙げたの」と聞かれたとき、「お風呂に入ろうかなと思って」と答える人はまずいないだろう。おそらくは「『お風呂に入ろう』と考えながら手を挙げるときに、本当はなにを考えているのかなと思って」と答えるのであろう。この場合、目標とされているのは「手を挙げる」という行為であって、思考ではないのである。
こういった観点からみてみれば、あるいは「意図」とは計画目標だということもできるだろう。タクシーを止めるという計画に従って手を挙げる。大学に行こうという計画に従って、家を出て、自転車を走らせる。それを「タクシーを止めるために、手を挙げるよう意図した」だの「大学に行くためにペダルを踏もうと意図した」という人はいないであろう。さらに手を挙げるためには上腕二頭筋を動かさねばならない。ペダルを踏むためには、大腿四頭筋を動かさなければならない。もはや理解できないことは目標にはなりえないのである。
結論として、「意図」とはその時点で目標とされていることであり、その一群のなかに位置する所種の行為は、それを実現するための「道具」にすぎないということができる。いわば、はじめに文意があり、それを表現するために単語が並べられているようなものである。そして、まったく目標として意識されていない行為も存在しており、それを問われたときには、目標は推測から導き出すしかないのである(6)。
ついでにくりかえせば、それらの「目標」も、主体的に意図されたものではなく、なにかしらの状況によって規定され、生み出されたものである。つまり私たちの主体性は、もっとも代表的と思われていた「意図」にすらも存在はしていないということである。
さて、話をもとに戻そう。
以上のことから、恋愛主体にとって対象の行為とは、すべてが自分に対する目標を持った行為だということができる(彼女はわたしになにかをしようとしている)。
しかし、その身体的特性ゆえに他者の目標は永遠に理解しえないものである。たとえ口頭で尋ねたとしても、返してくれたその答え自体が、さらに謎を持った問題になる。恋愛主体はひたすらに孤独のなかに閉じ込められていくのである。
しかし、それは独我論的な世界ではない。
恋愛主体は、身体の無限の隔たりこそ感じはするが、その対象が「心なき」存在だとは思いもつかない。なぜなら、私が悩んでいることこそ、まさに「彼女の心」なのだから。
たしかに気にもとめないような他者であったのならば、いくら観察しようとも、いや、観察すればするほど、そこに心の存在は認められない。あげくの果てには、気の利かない観察者によって「心とは周囲の状況によって機械的に規定されているだけのもの」といわれたりもしてしまう。それは一方的な関係によって他者をとらえているからであり、そこで問題にされているのは、人間というよりも、実験室に転がるブラックボックスなのである。
だが、恋愛関係のような、なんらかの関係性に置かれたとき、人は始めて独我論から脱却することができる。それは心の問題だけではないだろう。たとえ「心」が物理的な産物だとしても、それを盲目的に受けとめている〈私〉がいる。そして、《私》は恋愛対象の「心」を気にかけ、その行為に一喜一憂する。《私》の思いは、対象の思いに応えるばかりである。つまり、《私》とは、対象との関係によって規定されているのである。
《私》を条件づけるのには《他者》が必要とされる。ここのどこに独我論が含まれていよう。それはむしろ、間(相互)主観論とでもいうべきものなのである。
われわれは身体的独我論から出発し、関係性によって、ようやく他者に出会うことができた。そこで、主体にとって、相互に影響を与えあうような関係性にある対象のことを《他者》と呼ぶことにしよう。
(1)ゆえに、旧態依然とした亭主関白の夫婦において、奥さんをハウスキーパーか、介護士のように扱う関係は、「関係性にある」とはいいがたい。
(2)この議論に乗るとしても、いちばん始めの外的刺激がなんだったのか、という大問題が残る。ここが(物理的)決定論者の泣きどころであろう。これは「ビッグバンはなぜ起こったのか」と置き換えることができる。それとも、私が単に、物理の言語ゲームに染まっているだけなのか。
(3)問「それでは、われわれには本当の自由はないのか?」第一の反駁「不自由さは、別に感じないだろう?」、第二の反駁「さんざん物理的な法則性を解析しておいて、月や地球に失礼だとは思わないのかい?」
(4)これは以下の論述を踏まえている。「恋は盲目。この諺は間違っている。恋はしっかりと両目を開いている。恋するものは千里眼になるのだ。『わたしは、あなたのことでは絶対的な知を有している。』それは、牧師の主に対する関係なのだ。あなたはわたしに対して万能である。しかし、わたしはあなたについてすべてを知っている。」(バルト[1980] P.344)
(5)模範解答がある、というのは正しくはない。が、本論は禅宗の論文ではないので、このような記述で満足していただきたい。
(6)これだけのことをいうためにあんなに行を費やしたのか、と本論の不備を指摘する人もいるだろうが、おっしゃるとおりだ。私は混乱している。
第二章 一般的関係性について
【1】《他者》としての世界
前章では、恋愛関係においてこそ《他者》が現前し、独我論的な空間が打ち破られるということを考察した。本章では、その結論をうけて、一般的な《他者》との関係について考察していきたい。
さて、地球上にはたくさんの人間が生活している。そればかりか、私のまわりにすらも、人間たちの姿は渦巻いている。しかし、それらのなかでも多くの人々は、ただすれ違うだけ、あるいは通りすがるだけの漂泊民であろう。彼らはただ見られるだけ、ただ聞かれるだけとして存在する。どこからか私の世界に現れては、なんの痕跡も残さず、すぐに風のように消えていく。そこにあるのは私からの一方的な関係にすぎない。
また、それ以外の関係性にある人々───たとえば友人───であっても、その大部分が、私と「恋愛関係」にあるとはいいがたい。さすがの私も、そこまで気が多くはないからだ。かくして《他者》の数はおのずと限られてくることになる。
〈私〉の世界には《他者》はただひとり存在する。
つまり、〈私〉と《他者》は、一対一対応で結びえるということだ。このことは、恋愛主体と対象が閉鎖的な関係性にあるという記述によって導かれる。別に現実問題を述べたものでも、倫理を説いたものでもないのである。
しかし、その《他者》とは、本当にひとりなのだろうか。
具体的に考えてみよう。
いままでの人生で、A、B、Cという三人の女性と恋愛関係にあった男性を想像してみよう。彼は、どの女性とも豊かな恋愛関係を築き上げてきた。別れてしまったのは、さまざまな状況がそれを許さなかったからである。つまり、彼にとっては、いずれの女性ともが《他者》であった。さて、A、B、Cの三人の女性は、現在、心身ともに健康的に暮らしている。昔と比べて、それほど変わったようなところも見受けられない。それでは、現在、《他者》は何人いるだろうか。
答えは「いない」である。理由は前出の定義による。
しかし、この話において、《他者》となる可能性を持った人物は、三人いるということができよう。「彼」は、そのいずれの女性とも、ふたたび恋愛関係に陥る可能性があるのだから。
ここで、もう一度、恋愛関係の定義を思い返してもらいたい。
恋愛関係とは、相互的な関係性において対象が指向されるものである。しかし、よく見るとこの定義は、なにも恋愛関係に限られたものではない。指向の強弱こそあれ、関係性にあるものは対象を指向しているともいうことができるであろう。すると、関係性にさえあれば、この定義が適応されることになってしまう。
よって、これからは定義を拡大解釈し、実際に恋愛関係になくとも、定義には当てはまっているような関係のことを「恋愛関係」と呼ぶことにする。また、同様にして、ただ「主体にとって相互に影響を与えあうような関係性にある対象」でありさえすれば、その対象を《他者》と呼ぶことにする。
すると、どんな関係が「恋愛関係」と呼ばれうるのであろうか。
たったいま、私はコンビニエンス・ストアに行き、お弁当を買ってきた。お金を払うときに、小銭入れが小さくて一円玉が取り出しにくく、後ろには他のお客さんも並んでいた。モタモタしていたら店員さんに迷惑だろうな、と思った私は「あ、4円あります」と伝えた。店員さんは「はい」と答えたがレジは打たない。私は「信用されてないな」と思いつつ、一円玉を四枚、カウンターの上に並べたのであった。
このとき、私と店員さんは、「恋愛関係」にあるのである(1)。
もちろんこのままいけば、被害妄想症や対人恐怖症のまえに、もっとも数多く《他者》が現前することになる。そしてそれが真実である。彼らは他者が存在するだけで、その存在自体に意味を嗅ぎとり、解釈を与えてしまう。そこに「恋するもの」となんらかの違いがあるだろうか。自意識過剰、それこそ《他者》を目の前にした、主体の姿なのである。
ところが、ここで次のような疑問が生じてくることになる。
たしかに恋愛主体は、対象の不在にすらも影響されていた。それは対象との閉鎖的な関係性にあったからである。すると、非生物、おおよそ影響を与えてくるはずのない事物との関係にあっても、存在するだけで影響を与えられ、そこに《他者》が現れてくることが考えられるのではないだろうか。
まず、対人的な場合を整理してみよう。
この場合、なぜ存在するだけで記号になってしまうのか。それは彼の豊かな想像力が原因である。彼は自分の行為が相手にどのような影響を及ぼすのか、そしてその相手の反応に自分がどのように対応するのか、過剰なまでに想像することができるのである。ゆえに、彼は自分のなかで作り上げた対象との関係性に置かれている、ということができる。《他者》とは彼の脳裏に存在するものの名である。
一方、事物の場合はどうであろうか。
彼がいかに想像力があったとしても、事物たちが突如、輪郭を失ってどろどろに溶けだすというわけではあるまい。彼に事物の存在がどのように影響するというのだろうか。ここで思い返してもらいたいのが、前章であげた「ゴミ箱」の議論である。彼がゴミ箱を見る。そのとき彼が見ているのは、「ゴミ箱」という言葉が与えられなくてはならない事物である。あえて「『ゴミ箱』という言葉」を見ているといってもいい。そこには物自体などというものは存在していない。あるのは概念だけである。
そのとき、彼はたしかに事物に概念を見ている。概念は意味を帯びている。
しかしそれだけである。概念だの意味だのをもたらすのは《私》であって、事物ではない。つまり「関係性」には置かれていないのである(2)。
もう少し具体的に説明しよう。
私が愛用している楽器を見る。楽器は「ベース」という概念として私に与えられる。「ベース」とは意味を持った言葉である(視覚映像であっても)。「ベース」を見るということは、辞書で「ベース」の項を検索するようなものなのだ。その「ベース」は《私》と遊離したものではありえない。常に《私》との関係において、規定されているものなのである。たとえ先輩の五弦ベースを見たとしても、「五弦ベース」は、「ベース」という概念を帯びており、その時点で《私》との関係に置かれている。
だが、ここでいわれる「関係」とは、「ベース」の座標点が《私》を基準とするような座標軸上に置かれて決められているという意味であり、いままでの議論で論じられてきたような「関係性」上にあるわけではない。
このことによって、事物の《他者》性は否定されることになる。
しかし多少、微妙なところも出てくる。それはアニミズム、フェティシズムに関わる問題である。そういった物神化作用においては、事物の存在がまるで恋愛対象のように立ち現れてくることがある。その場合、事物は《他者》とはいえないのだろうか。
いや、いえない。もちろん具体的に拝物愛者になったことがないので、正確なところはよくわからないのだが、「女の子よりもベースの方が好き」と言い放ったことがある私としては、そこにあるのは一方的な関係だけだと思っている。つまり、洗濯機のボタンを押し、回転しはじめたのを見て、にこりと笑うような関係である。
「ストーカーの愛」が片思いとどう違うのか、たまに問題にされることがあるが、私から見れば、そんなものはコレクター的な、一方通行の関係でしかない(3)。
よって、アンドロイドのようなものを除く、具体的にその選択が把握できる事物については、《他者》は存在していないという結論になる。
独我論から出発した《私》の世界は、関係性によって《他者》と出会うことになった。その契機はすべて「指向」すること、すなわち「気にかける」という行為にある。それを恥ずかしい言葉に置き換えれば、まさに愛の力によって、われわれはひとりではなくなる、といえるだろう。
ただ通りすぎるだけの漂泊民がいる。だが、ほんの少しでも気にかければ、彼らは《他者》になってくれるであろう。袖すりあうも多生の縁というではないか。
もっとも、それが「良い」とは決していわないが……。
(1)誤解がないようにいっておくが、もちろん定義された専門用語を適用した場合である。さらに私には対人恐怖症じみたところがあることもいっておこう。
(2)この議論を展開する上で、触覚を例示し、違った考察をすることもできた。それを紹介しておく。たとえば、事物を触るときに、私は事物から押し返されるのを感じる。この寒い冬の季節なら、指先にひんやりとした感触すらも残す。そこには私の「触る」という行為に対して、事物は感触という影響を与えてくるのである。これらのことから、事物にも《他者》が存在する、といおうと思ったのだが、どうにも具合が悪い。まず、視覚的な関係性を説明しづらい。さらに、方法的独我論の立場からは、事物の与えてくる感覚ですらも自分のものとして疑わざるをえないのである(というか、自分のものなのである)。本当のところはどうなのであろう。私としては批判を待つばかりである。
(3)ストーカー、もしくは蒐集家諸氏からは反論があるかもしれない。さらに、フェティシストからも連絡を待つ。話せばわかる。……わかるのか?
【2】主観的客観の認識について
前節において《他者》への考察は、ひとまず終わりを告げた。これからは、世界を構成するもうひとつの要素、すなわち事物も含めた意味での「他者」について考察していきたい。
私は基本的に、事物の実在するままの姿、いわゆる物自体は認識できないと考えている。しかし存在しないわけではない。存在はしている。ただ、わかりえないだけなのだ。それは人間が世界を認識する上で用いる「言語」の性質ゆえにである。
幾度となく、私は人間は認識において、物自体ではなく概念をとらえているといってきた。そして、それは言語であるとも。その理由は、われわれの発達における世界の習得過程にある。
少し具体的に見ていくことにする。
われわれがこの世に生を受けたとき、脳も未発達な乳児の形をとっている。くわしくは発達心理学の言説に譲るが、いうなれば実存主義的なカオス渦巻く状態がそこにはある。
その後、順調に発達し、ある程度の認識が行えるようになった乳児は、世界を大まかに分節化するだろう。もちろん言葉は与えられない。しかし、その分節化の時点ですでに事物は概念化されているのである。乳児はある規則性によって、その事物をほかの事物と切り離している。さらに自分とその事物との関係、自分とそのほかの事物との関係、そしてその事物とそのほかの事物との関係といったものを把握する。
事物が分節化された時点で、すでに世界は一定の規則性に従っている。そして、乳児が分節化されたものとして世界をとらえる以上、そこには概念を見るしかないのである。さらにいえば、それは「言語的」ですらないだろうか。いまだ単語の与えられていない言語、それは私的言語といってもいいようなものではないだろうか。
次の段階で、世界に単語が入り込んでくる。その時点で、概念はさらに分節化され、文法的な位置すらも帯びる。概念どうしの関連性からさらなる概念が規定されたりもする。
たとえば「牛車」。およそ実際に乗ったことがないような古典文学に出てくる乗物であっても、牛だの、図版資料だの、あるいは文章中の表現などにより、その概念をおおまかには理解することができる。しかも自分なりにだ。
そのようにあらゆる概念が、ほかの概念との関連性によって結びつけられ、体系的な言語の網の目を作りだす。そこまで来れば、もはや概念をとらえるためには、言語体系の座標を利用するしかなくなってくるのである。その良い例が抽象的な概念であろう。
こうして、われわれは事物をとらえるのに、言語を必要とすることになる。われわれがパンツを履くときには、具体的なパンツを身につけるわけではなく、まさに「パンツ」という概念を履いているのである。そして「勝負パンツ」を選んで身につけるときには、これまた「勝負パンツ」という概念体を履いているのである(1)。
それは聴覚的な言語にとどまらない。視覚像であっても、嗅覚的なものであっても、すべて概念、つまりは言語としてとらえられる。ただ、触覚においては、その概念が現れにくく、その意味では物自体に近いところまで肉薄しているといえよう。
以上のことから、人間は概念を認識していると結論されることになる。
続けて今度はその概念認識についてより細かく考察していこう。
ここまでの議論で生じてきた二つの疑問がある(2)。
まず第一が「概念」の形態の問題である。
私はいままで、「概念」だの「言語」だの「意味」だのという単語で、同一のものを示してきた。それが認識の対象ということは、はたしてどのような形態を持っているものなのであろうか。
ここでひとつ実験してもらいたい。
まず、目を閉じて、一切の心的内話もなしに(つまりは頭のなかを空っぽにして。それが難しいなら、なにか身近な別の言葉でも唱えながら)「本」を思い浮かべてもらいたい。
今度は逆に、なにも思い浮かべずに(同様に、困難であるならラーメンでも思い浮かべながら)「本」と発話してもらいたい。
さて、どうであっただろう。
おそらく、そのどちらともが困難であったことと思われる。このことは内話的な思考が、深くイメージと結びついていることを表している。
ここで、意味とはイメージである、と結論づけるのは早計であろうか。
このような仮説にしたがって、人間の思考過程を考えてみると、なかなか面白いことがわかる。まずはおおまかなイメージがあるとしよう。これが「思考の萌芽」(野矢[1995] P.145)といわれるようなものである。未だ明確なイメージにはなっておらず、言葉の切れ端たちがさまよう、そんな状態である(3)。つぎに、イメージがその言語的規則に従って分節化される。そこで内話は完成する。
具体例をあげてみよう。たとえば、私が友人に「超越論的統覚」という単語を説明するような事態を想像してみよう。このように高度に抽象的すぎる概念は、イメージとしての形態は極めてモヤモヤとしたものであり、おおかたの場合、言葉だけがあるようである。それが、説明するということで「経験的自我」だの「時空」だの「統合された私」という言葉が思い浮かぶ。さらにそれぞれの単語も、友人が理解できないという予測から、細かにイメージされる。さらには、説明して理解されやすいように、発話する順序までも想像する人がいることだろう。そして、いきなり発話される。想像もされなかった細かいイメージは、そのときに言語規則から自然と結びつけられていく。それはまるでベテランの主婦が、冷蔵庫の残り物を使って、一品料理をでっちあげるようなものである。たまに理解不能なものが出てくるという所まで似てはいないだろうか。
これは、われわれが事物を認識するときと同じ順序で行われている。このことから、会話するときも、認識するときも、同じような過程によって言語化されているといえよう。
おそらく以上のような説明でも、概念がイメージなのか、言葉なのか、具体的には理解されなかったかもしれないが、私としては、むしろ言語的なイメージだといっておきたい。なお、この議論はどこか、量子力学の粒子か波動かの議論に似てはいないだろうか。
第二の問題として、概念の存在の真偽判断があげられる。概念だ、概念だといいたてているが、その極めて個人的な概念が、どうして存在しているといえるのか、という問題である。
ここで真偽判断を個人的なものと共同的なものに分けて考えていきたい。
まず、個人的な真偽問題である。
大森荘蔵のあげている例から、まず「『色メガネ』の状況」(大森[1981] P.205)という問題を考えてみよう(4)。
私が可愛い女の子と話しているときに、赤いサングラスをかけた。当然、目の前の女の子は赤く染まる。そのとき、女の子は「赤くなった」のだろうか。まるで白磁のように肌理細やかで白かった肌も、あの大きな黒目がちの瞳も、すべて赤くなってしまったというのだろうか。
そんな馬鹿な話はないであろう。なぜなら、私は彼女が「赤く」ないことを知っているのだから。しかし、その真理的な概念(彼女の色に関わる)は、なぜ本当だといえるのであろうか。勝手な思い込みにすぎないのではないだろうか。
大森は著書のなかで、半透明体(この場合、赤いサングラス)の透視効果によって、その変化を説明しているが(大森[1981] P.246〜)、サングラスをかけたと同時に、まるでリトマス試験紙に酸をつけたかのように、赤くなるような人間の可能性が考慮されていない。彼女は、私がサングラスをかけるという行為に誘発され、身体ばかりか服の色までも変化させる特異体質の人間だったかもしれないのである。確かに馬鹿な話である。だが、われわれはなぜ、そういった懐疑を「馬鹿なこと」としてとらえているのだろうか。
その答えは、経験的に学習された「概念」にある。
まず、われわれは人間を見て、色が変化しないことを学習する。そして人間という概念の中に「色が変化しない」という意味が書き込まれる。
つぎにたまたま三軒茶屋で可愛い女の子に出会ったとしよう。お話する機会も得た。そのとき私は彼女も「人間」だと把握している。つまり、彼女は色が変化しないものなのだ。
それとは別の経験によって、赤いサングラスによって、世界の色が赤く染まるということを学習している。それらの「赤いサングラス」という概念と「人間」という概念が複合され、彼女が赤く染まっても、彼女が「赤くなった」とは考えないのである。
また、「見間違え」の場合も考察してみよう。
私はどうも見間違えやすい人間のようで、つい先日も夜中にタバコを買いにいこうと思って歩いていたら、暗がりにある植え込みに人がいると誤解し、びっくりしたことがあった。よくよく見るとそれは植え込みのなかの一本の木だったのである。さて、なぜ私は「木であること」が真実だと思ったのだろうか。
まず、人がいると誤解することだが、それには条件がある。私の家の周りは飲み屋街で、夜中といえども酔っぱらいのサラリーマンが騒いでいるような場所である。だから植え込みに酔っぱらいがうずくまっていても少しもおかしくないのである。いうなれば「概念化された風景」が状況としてあったことになる。そこに奈良公園の鹿を見間違えることは絶対にありえないのである(5)。
さて、私が「酔っぱらいがいる」と見たとき、そこには人がいたのだろうか。私はいわば、人がうずくまっているような空間に「酔っぱらい」という意味を与えていたということができる。つまりその空間を記号化していたのだ。そのとき、私は間違えなく「酔っぱらい」という概念を見ていた。いいかえれば「酔っぱらい」が存在していたのである。こんもりと茂った薄暗い山道で見つけたものは間違えなく蛇であったし、人気のない川べりの柳の下には恨めしそうな幽霊が立っているのである。しかし、事実ではない。それは確かに見た、しかし信じられてはいないのだから。
それではなぜ、私は「酔っぱらい」の像を信じておらず、「立ち木」の像を信じているのだろうか。そしてそこには個人的な真理というものの正体が隠されているのではないだろうか。
私が未だに「酔っぱらい」の像を信じていないのは、それがすぐに消え去ったからである。もちろん、それだけでは正確ではないだろう。もし、たったいま、部屋の中央にリンゴが浮かび上がり、すぐにかき消すように消え去ったとしても、私はそのリンゴの存在を信じるであろうから。この場合、なにが違うというのだろうか。
リンゴの出現は、私にとっては理解不能な出来事である。この部屋にはリンゴの木も、ホログラム発生装置のようなものもない。そして、それは幻覚か奇跡かのどちらかだと思うであろう。しかし、見えていることは疑いようのない事実である。そして、それが見間違え(本当は洋梨が現れていたのだが、私はリンゴだと思ってしまった)だとは思いもつかないであろう。
いわば、そこでは記号の解読の正当性が問われているのである。私はその空間を解読して「酔っぱらい」という意味(そしてイメージ)を与えてしまった。だが、どうも具合がおかしい。よく見てみる。立ち木である。時間をかけて見てみる。立ち木のままである。今度は場所も移動して見てみる。どこから見ても立派な立ち木である。そのほかにも触ったり、匂いを嗅いでみたり、味わったりして自分の解釈が正当なものかどうか確かめることができる。さらには「酔っぱらい」に見えた理由なども判別されると、より確実になる。そしてその記号の解釈は安定する。だが、リンゴの場合、解釈の確認をしようにも、その当の記号自体が消え去ってしまっている。その時点では、いかに洋梨だったとしても、私にはリンゴであるしかないのである。確認するすべはないのだから(6)。
また、真理といわれるものも、以上のような確認の作業によって得られるものであるし、得られるものでしかない。時間的な確認、空間的な確認によって、相互に関連づけられた矛盾のない「概念体」こそが、事物が「実在する」といわれるときの姿である。すでに述べたように、人は物自体には到達できないのだから。たとえば、パチンコ玉を見るときに片目で見たならば、二次元的な平面の円にとらえられるであろう。それでは数センチだけ眼の位置をずらして見てほしい。今度も円であったはずだ。この二点からの視点だけでも、このように球形だということが判明する。その確認の作業を同時に行っているのが、この両目である。あるいはなにか概念体を思い浮かべたとき、その概念体をぐるっと一回転させることができるだろう。または逆に、仏像を見ていて背後にまわりこんだとき、実はそれが精巧に作られた立体の張りぼてだったことがわかったとき、意外と驚くことがあるだろう。そのとき、だまされた悔しさよりも、なにか不自然さすら感じることがある。このことは、概念が学習されたときに、その事物が確認の作業を行われたことを示しているのである(7)。なんと「仏像」の概念には背中があるのだ。
共同的な真理も同様である。
個人的な確認作業と同じように行われた、個人的な確認が、いくつも集まり、相互に矛盾なく関連づけられたときに、その事物は「実在する」。もし、その共同体内部で矛盾が残されていれば、それはまだ実在していないのである。たとえば「神」などが、そのよい例であろう。
こうしてある程度は、人間の認識における対象が「概念」であるということは、いえたのではないだろうか。そして真理といわれるものについても。
いよいよ最大の難問に取りかかるとしよう。
これまでの考察で唯一残された事物、それは「私」である。多くの論者を悩ませ、そして私も悩まされ、自分の能力のなさを実感するにまで至らしめた、この最大級の難物に、いまこそ引導を渡し、これまでの考察をひとつにまとめあげなくてはならないだろう。さて、はたしてどうなることやら。
(1)聞き慣れない単語かもしれないが、「勝負パンツ」とは意中の異性の前で下着になる可能性があるときに履く、立派な下着のことを指す。
(2)私にとっては、である。
(3)残念ながら、この状態は仮想されるしかない。
(4)カントの認識論と記号理論を駆使してみたら、そこに大森荘蔵が立っていた、という構図になる。けっこうショックである。
(5)しかし、遺伝子操作をされたバイオ鹿が人間を襲うなどという恐怖映画を見た直後であれば、「概念化された風景」にも「鹿がいる」という意味が含まれるため、その可能性はおおいにありうる。実際、広島の宮島に野宿をしたとき、鹿の存在に怯えつづけた恐怖の夜を過ごしたのだが、その次の日、スーパーのなかにも鹿がいるような錯覚に襲われたことがあった。あれは怖かった。
(6)もし大家さんが私の知らないうちに、部屋にホログラム発生装置をつけ、それで洋梨の像を見せていたとすれば、私は大家さんと論争したあげく、もう一度見せてもらうことによって洋梨だという確認をすることができる。そして、そのときに始めてリンゴは見間違えになるのである。
(7)もちろん、それは正確に記憶しているということではない。ただ、三次元的に把握されていることを示したかっただけである。さらに日頃、表面しかとらえられていないようなものは、意外と困難である。たとえば、時計など。
【3】他者としての〈私〉・他者としての《私》
わたしとはなんであるのか。
たとえば私が解離性同一性障害だったとしよう。私の身体のなかには「ミッキーさん」といわれる人物が存在しているらしい。朝、起きてみると布団のまわりにビールの缶が転がっていたり、机の上に「江戸三十三観音札所めぐり」のパンフレットが置いてあったりもする。ある時、アルバイトの面接のために、履歴書を出さなければならなくなった。気がつくと、すでに「ミッキーさん」が書いておいてくれたらしい。特技のところには「バスケット、テニス」と私が地球上で最も苦手なスポーツの名前が書いてあった。性格は「明るい」とこれまた私が最も理解できない、あいまいな性格分類が書かれている。だが、その写真だけは、私がいつも鏡で見ているこの顔であった。はたして、この履歴書は出すべきなのだろうか。
さて、医者の治療の甲斐あって、私と「ミッキーさん」は人格が統合されることになった。当然、「ミッキーさん」として生きた十五年以上の人生の記憶も私のものとなる。さて、そのときの「私」は誰なんだろうか。そして、以前の私と「ミッキーさん」との関係性はどうなるのだろうか。
これだけの簡単な話にも、「私」というもののとらえがたさが隠されている。ひとことで「私」といっても、数多くの性質がそこには含まれているからである。
私は誰。
記憶喪失者のつぶやき。では、その主語である「私」とは誰なんだろう。
「わたし」をめぐる哲学的思索は、すでに数多くの先達たちによって行われてきている。そこには私が入り込む隙間もない。よって、本節では、それらの思索とは多少、枠組みをずらし、思考を発する主体としての《私》、その内話を聞いている主体としての〈私〉、の二点に絞って、話をしていきたいと思っている。
まず、前節までで、われわれは認識において、概念をとらえていることが確認された。認識とはなんであろう。それは聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚によって事物がとらえられることを指す。そのいずれもが概念を対象物にしているといえるのである。つまり、そのいずれの感覚においても「想像する」という行為が可能であるともいえる(1)。
さて、聴覚において想像するという行為を行ってもらいたい。それがいちばん容易に行えるのは、内話を発しているときではないだろうか。すなわち、思考をするという行為である。このとき、その内話を聴いているのは「私」である。それでは、その内話を発しているのは誰なのであろうか。いいかえれば思考をしている主体は、つまりはわれわれを動かしているのは誰なのであろうか。
それは確かに「私」であろう。
しかし、内話を放ちながら、同時に聞くという行為が「同一人物」に行うことが可能なのだろうか。それは物理的にいっても不可能なのではないだろうか。私の「私」に対する懐疑は、ここから端を発したのである。
つぎに、内話自体を観察していただきたい。思考するときに内話を用いるというのは疑いようのない事実であろう。しかし、その思考はどのように行われているのだろうか。実際に内話とともに思考してみる。すると、それが会話形式、まるで弁証法を地でいくような対話によって行われていることに気がつくだろう(2)。
私は会話というものを、高度に言語規則に支配されたものだと思っている。たまにかみ合わないようなトンチンカンな人も見受けられるが、それも私との規則に適応していないだけで、なんらかの規則にはしたがっていると読み換えていくことができるのである(3)。
このように会話が言語規則にしたがって行われていくものだとしたならば、内話も言語規則にしたがって展開されていくものだといえはしないだろうか。そして、さらに思考についても、規則による概念(=意味)の戯れだということができないだろうか。このような外的視点から見るならば、思考とは、いわば自己差異化の生成運動によって行われていくものなのである。
だとすれば、内話をしているとき、われわれは他者の会話を聞いているのも同然だ、ということになる。そして勇気を持って、ここでそう仮定してみよう。
これらのことから、そういった他者の会話を聞いているような(受動的な)主体のことを〈私〉と表記することにする。この〈私〉とは、いわば経験的自我のようなものである。さらに、いまさらながら、思考という言葉には、無意識的な思考も含まれてくることにしよう(4)。そして「心」とは、それらの思考が映し出される場所、スクリーンのようなものだと定義する。
そうすると、さらに違和を感じるような結果が現れてくる。
われわれは物自体(=世界)を認識するときに、概念を与えて世界を分節化している。そして、それこそが「認識する」という行為であった。さらにそういった行為を引き起こすような「意図」という言葉もあった。それらがすべて「言語規則」という、さも、わかったかのような怪しげな規則の生み出すものだとすると、われわれの身体は〈私〉のものではないのではないだろうか。そうすると恋愛対象に愛を感じているのですら〈私〉ではないということになる。
確かに受け入れがたい考えではあろう。「心」が存在しないといっただけで、冷たい人呼ばわりされてしまう時代だから、非難もされることとは思う。しかし、あくまで外的な視点から解釈しているということを忘れないでもらいたい。恋愛主体ならば確実に愛を持っているのだ。さらに〈私〉であっても愛は感じている。受動的な意味で、であるが。
すると、われわれの身体は言語規則に従って動く、自己差異化的なシステムだということになる。
しかし、自己の内部でいくら差異を作りだすといっても、その運動性はおのずと限られてくるだろう。また、閉鎖的なシステムにおいては、「自己意識」などというものが生じてくるはずもないのである。なぜなら、なにかしらの差異がなくては、「自己意識」は存在しえないからだ。
ゆえにこのシステムは外部空間を必要とする。
つまり、その外部入力こそが「認識」なのである。そして《他者》とは、そういった言語規則のシステムすらも書き換えるような、強烈な外部入力だということができよう。そこで変化するような自己、すなわち言語規則を含めたシステム全体を《私》と呼ぶことにする。
すると、いままでの考察をコンピューターに例えることもできる。
そこでは、「物自体」というものがプログラム言語だということになる。われわれは認識という手段によって、プログラム言語を入力し、同時に機械語に変換させる。つぎに、中央演算処理装置(CPU)にて機械語は電子回路に働きかける命令となり、さまざまな機能を作動させることとなる。そして、その出力結果がディスプレイに表示される。そのディスプレイこそが、「心」であり、〈私〉である。そして、それらをも含めた、このネットワークこそが《私》なのである。
すると当初に私を悩ませた、聞く主体による、思考する主体の把握という問題は、「ないものねだり」ともいえるような問題であった。また、聞く主体の〈私〉と、思考主体の《私》が、単純な一人称代名詞「私」によって錯綜してしまった結果、わからなくなってしまったのかもしれない。
《私》と〈私〉とは、あまりに肉薄しすぎているのである。
私の考えをいえば、《私》については、認知科学が進むにつれて、ますます研究がなされていくだろうと思っている。そして多くの研究者が、それを〈私〉と誤解して、「人間を理解した」などと大見得を切ることだろう。だが、そんなことでは〈私〉は理解すらもされはしないのである。そして、そんな研究をどうして「人間が理解できた」などということができよう。
むしろこれからは〈私〉を考察していくべき時代ではないだろうか。そして、その仕事は、哲学にのみ行いうるものではないだろうか(5)。
〈私〉は最近、そう考えているようである。
(1)私は静かなところなら可能である。
(2)このことから「思考とは自分との対話」ということもできるではあろう。だが、そうするとさらに思考する主体が必要にされてくる。さらには、私が対人的なコミュニケーションで論じてきたような諸問題も、ふたたび生じてくるであろう。
むしろ、私は「自己」とは完結した閉鎖的なシステムとしてとらえたいと思っている。また、だからといって「自己」内部の「他者」の存在について否定するわけではないこともつけくわえておく。むしろ、閉鎖型のシステムだからこそ「他者」が必要とされるのではないだろうか。そして「他者」といっても、むろん「無意識」などではない。
(3)言語規則にわざと外れる、そのことが「笑い」になる。しかし、それすらも「笑い」として受けとめられる範疇の言語規則にはあったというわけだ。また、なにが笑いになるのか、という「笑い」の規則も、興味深い問題ではある。
(4)「感情」は含まれない。その理由をここに書いておこう。私が悲しいとき、私は様々なことを思い悩む。だが、その思考には直接「悲しい」という語句が出てくることは稀である。私は「悲しみ」を思考しているわけではなく、「悲しい」と感じているのだから。それも「感じる」といっても認識されているわけではないのである。ゆえに自己の内部的な性質であると想像される。そして私は「感情」を、思考を統御する言語規則を支配する上位規則だと仮定する。この仮説によって、感情の状態が言語規則を変化させ、悲しみの言説などを作り上げる、といった説明ができることになる。そこには大森のいう「感情は『私的現象』なのではなく『世界現象』なのである」(大森[1981] P.232)という説も矛盾なく取り込むことができる。なぜなら、認識される概念すらも、感情は支配することができるから。
(5)だからといって、やらなきゃいけない義理もない。虚学で結構。いや、むしろ「哲学」というジャンルすら無用。私は考えつづける。ただ、それだけだ。
結語
おそらくこれを読まれる方のなかには、私の考察が未熟で不充分なものであること
を知って、読む気すらも失ってしまう方もいることだろうと思われる。
だが、ぜひとも批判をしていただきたい。非難ではない、批判を、である。
本論製作中に、私は哲学に完全に打ちのめされた。
おそらく、このような分量の論文はもう書かないだろうと思う。
だからこそ、批判をいただきたい。もちろんお手柔らかに、だが……。
参考文献
植村恒一郎「主観性と客観性」(カント研究会『超越論哲学とはなにか』 理想社 1989 所収)
大澤真幸『意味と他者性』 勁草書房 1994
〃 『性愛と資本主義』 青土社 1996
大庭健 『他者とは誰のことか』 勁草書房 1989
大森荘蔵『流れとよどみ』 産業図書 1981
柄谷行人『探究1』 講談社学術文庫 1992
立川健二『誘惑論』 新曜社ノマド叢書 1991
永井均 『〈私〉のメタフィジックス』 勁草書房 1986
〃 『ウィトゲンシュタイン入門』 ちくま新書 1995
〃 『〈子ども〉のための哲学』 講談社現代新書 1996
野矢茂樹『心と他者』 勁草書房 1995
村田純一「『わたし』をめぐる心の哲学」
(村田純一編『「わたし」とは誰か』(新・哲学講義4)岩波書店 1998所収)
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』 三好郁朗訳 みすず書房 1980
(Barthes,R. 1977 Fragments d'un discours amoureux Edition du seuil)
平成10年度卒業論文発表会
1999.3.16
恋愛対象はいかなる存在か
発表者:94E●126K ●中浩●
《論文の要旨》
コミュニケーションでは、理解されえないはずの言語規則が妄信されることにより、対話が成り立っていた。だが、恋愛関係は「双数関係」であり、理解されえない対象の「意図」が、理解されえないまま問われつづけ、まさにそのことによって、主体にとって対象が「心ある存在」として立ち現れることになる。
さらに双数的な関係性にさえあれば、恋愛対象以外であっても、主体には「心ある存在」として立ち現れる。その関係性において自己は確立されておらず、つねに《他者》との影響において存在している。
だが、それ以外の事物において、主体は言語規則によって、分節化された「概念」を認識している。それは閉鎖的な自己差異化のシステムであり、絶対的な不動の中心点としての「自己」概念を生んでいる。
《問題意識と目的》
私は対人関係において、よく「誤解された」と感じることがある。だが、そのとき問題とされている「本当の自分」とは何だろうか。いったい何が「本当の自分」という考えを生み出すのだろうか。また、逆に他者との会話において、私はその相手をどのように把握しているのだろうか。そしてさらに、この世界をどのように把握しているのだろうか。
そういった疑問に答えるために、対人的なコミュニケーションを出発点とし、もっとも懐疑的にならざるをえない恋愛関係、そして世界認識について考察を加えていった。結果として、外部に対する「自己」概念の違いがあることに気がつき、その明確な分類を目標としたが、考察は中途半端のところで力尽きてしまった。
《論文の流れ》
〇本論における「恋愛」の定義
恋愛とは、恋愛主体と恋愛対象の関係性において対象が指向されていることである。
〇一般コミュニケーションにおける規則の妄信
「双数関係」ゆえの恋愛対象の記号化作用と、その記号解釈の不確実性。
コミュニケーションにて、コード(言語規則)の共有は保証されない。しかし、コード共有の妄信と、実際的な使用によるコード共有の検証により、会話は成立する。
コミュニケーションの対象へ、性質(=規則)を付与しているということ。
〇恋愛関係の特殊性
関係性に必要な「選択の自由」。
恋愛関係(=双数関係)における不自由な関係。そして、それによる行為の記号化によって意図が問われるということ。
諸種の行為は、目標のための「道具」であって、意図は存在しない。また、その対象の行為が「計画目標」であったとしても、その意図は身体性ゆえに理解されえない。
だが、「問う」という行為によって、主体が対象との関係において規定され、独我論、さらには「確立された自己」像から脱却される。
〇《他者》の一般化
関係性の相互作用によって、恋愛関係以外でも《他者》が存在する。
相互作用にない事物には《他者》が存在しない(だが、事物であっても意図が認められるようなものに関しては、《他者》になりうる。たとえば、幽霊や付喪神などの物神主義)。
〇主観による認識について
人間は認識において、物自体ではなく「概念」を認識しており、それが「言語」だということ。「概念」は明確なイメージ像ではなく、言葉の網の目における関係性としての「意味」だということ。v
真理とされるものは、経験的な学習によって、検証によって相互に矛盾なく組み立てられた「概念」である。
〇他者としての〈私〉・他者としての《私》
〈私〉───受動的に存在し、その受動性が意識されていないため、意識の主体
と誤解される。ここから脱人格的な自己意識や、記号的自己意識などが生じている。
《私》───自己差異化的なシステム。主体性は問われない。世界の限界としての
自己、あるいは(独我論的な)世界自体。《他者》によって、その外部が予感される。
《参考文献》
植村恒一郎「主観性と客観性」(カント研究会『超越論哲学とはなにか』 理想社 1989 所収)
大澤真幸『意味と他者性』 勁草書房 1994
〃 『性愛と資本主義』 青土社 1996
大庭健 『他者とは誰のことか』 勁草書房 1989
大森荘蔵『流れとよどみ』 産業図書 1981
柄谷行人『探究1』 講談社学術文庫 1992
立川健二『誘惑論』 新曜社ノマド叢書 1991
永井均 『〈私〉のメタフィジックス』 勁草書房 1986
〃 『ウィトゲンシュタイン入門』 ちくま新書 1995
〃 『〈子ども〉のための哲学』 講談社現代新書 1996
野矢茂樹『心と他者』 勁草書房 1995
村田純一「『わたし』をめぐる心の哲学」
(村田純一編『「わたし」とは誰か』(新・哲学講義4)岩波書店 1998所収)
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』 三好郁朗訳 みすず書房 1980
(Barthes,R. 1977 Fragments d'un discours amoureux Edition du seuil)